昭和41年07月05日 夜の御理解


 お道の信心をさせて頂くと、様々なお道の専門用語と、言った様な言葉があります中にに、ごひれいという言葉があります。ごひれいを頂いておる、あの教会はなかなかごひれいがたつげなと、教祖の神様の御理解の十五節のとに、ひれいという事を使って、神が氏子が真から用いるのは神のひれいじゃが、寄進勧化をさせて、氏子を痛めては神は喜ばぬぞと。あの神のひれいじゃが、私共もあちらは、中々御比礼が立つと言った様な事の時に、この御理解にも、ちょっとその注がしておりますよね。
 神の威徳とか盛大という意味だとかいてある。惟はもう随分まあ、教学されてからの事であろうと思うのですよね。あのそう言う風にその思っておるです。けれども是が違っておる訳ではないですけれども、私は神のひれいというのそんな、根本的な所に違いがあると言う事です。盛大だとか神様の御威徳とか、例えば、私共は生きた魚が生きた魚が泳ぐ時にひれを、ぴっぴとこう動かして勢いよく泳いでいくでしょう。あぁ言う様な勢いのことを、ひれいとこう言うておられると、言うてもおり思うてもおりました。
 今日私お知らせを頂まして、その事についてから頂くのがですね、ごひれいというのは神様が生き生きと、喜んで下さるという事。神様が生き生きと、喜んで下さるその賀びを働きに、現して下さる事がごひれいと仰る。これは大変な私は事だと思うですね。この事は。例えばあの教義、御教えを教学するというてもですたいね、ただそういう程度ででしか分かってないですよね。所が分からん分からんではなくてです、ここが分からなければですお互いが、おかげをその信心が分からん事になるです。ね。
 例えば椛目広前を今、ごひれいがたちよる、という事はとりもなおさずです、例えば中心である私の信心がです、神様に喜んで頂けれるような私であり、信心になったから、神様がその賀びをです現して下さる。その神様の生き生きした賀びを働きに現われてくる姿を、御ひれいというのだと。ですからこれは、お互い個人の上にも又は家の上にも、町の上にも御ひれいを頂かなければならないということなのです。ね。例えば皆さんの一家の上にです。
 お取次を頂いて、お願いをして、繁盛のおかげを頂いていくと言った様なものはごひれいじゃないです。神のひれいというはそれこそ、あの椛目が、例えばここにお取次の場と言うものが生まれて、ここに沢山の人が助かるようになったと、言う事をどの位、神様がまっておられ、どのくらい、神様が喜ばれたかと言う事なんです。その賀びがひれいになって、現われたわけなんです。
 ですから、皆さんの家庭においてもです家族を上げて神様に喜んで頂けれる雰囲気とか、喜んで頂けれる信心というのが手をとりあって出来なければいわゆるひれいというものはいただけないと。本当の繁盛という事は。本当は信心モードが家庭の中に漂わなければいけん。ね。家の中に、ね。家族中のものの信心がです、神様に喜んで頂けれるような、あり方にならせてもらう時に、その家にいわば神様の賀びが生き生きとして始まる。そういう働きをひれいという。
 ですから、神様のごひれいを傷つけてはならんと、言った様な事は申しますけれどもです、私共のきかんにかなわない、という事が一家の中に一人おってもです、もうひれいを傷つけるわけなんです。ね。家族中のものがその心になって、神様に喜んで頂けれるあり方にならせて頂こうと、神様が喜んで頂くこととは、神様に喜んで頂く事とはと言うふうにそこに追求、焦点をおいてです、神様に喜んで頂けれるようなありかたにならせて頂こう、思い方にならせて頂こう、そこに私はその家にひれいがついてくる。
 神様の生き生きとした賀びがです、そこに生き生きと現われていくところにです、いわば、目を見張る様なおかげになってくるのです。ごひれいを頂かなければ目を見張る様なおかげにはなってこんです。人がびっくりするような、おかげにはなってこんです。それにはまず、私が神様に喜んで頂けれる私に、家族中のものが家族中の中に例えば一人、少しでも御ひれいを傷つけるものがあったなら、もうそのごひれいをそれだけ引落す事になる。だから家族中のものがです。椛目の信心は椛目が。
 まだ御ひれいがたっておるげないと人がいうけれどです、一人の信者がです、その御ひれいを落とす様な事をしたらです、それだけいわば椛目のごひれいがマイナスになると言う事になる。椛目全体のものを上げてです、神様に喜んで頂かれるようなあり方にならせて頂こう、ならせて頂こうという気持ちにまず、この一線上にでらなければならない。ね、私共一家が神様に喜んで頂けれる様な、信心にならせて頂いたその賀びを、隣にもまたその隣にも、広めていかないかんかと言う事が分かるでしょう。
 家の信心を頂くために、町のひれいを頂くために。ね。村中が例えば挙げてお道の信心をさせて頂くようになれば、その村に神様のごひれいがつくです。ただ、御比礼というのは、神様の威徳とか盛大だとか、勢いというふうにこの教典にすら、その程度にしか説明してありません。けれどもその、勢いというものはどういうものか、神様の生き生きとした喜びがです、そこに働き始まるという事なんです。
 それが盛大に生き生きと神様の御威徳を目の当たりに現して下さる働きがあるのであって、問題は根本のところは、神様が喜んで頂けれるようなあり方、お広前に例えばごひれいが立ち始めたらです、そこで先生は確かに神様に喜んで頂けれるような、修行や信心をなさった方に違いないのです。それを二代が三代が御ひれいを落としてしまうという事は、神様に喜んで頂く信心を、御ひれいを落としてはならん、ごひれいを落としてはならんと言った様なことではつまらんと。
 どうしたら神様に喜んで頂けれるだろうか、神様の心にかなうお商売、神様の心にかなうお百姓と、神様の心にかなう生き方あり方に、ならせて頂くという事に、一生懸命そこに取り組んで行けばいいという事である。ね、しかもそれが家族中で。ですからどうでもその、家族中のものがです、家のひれいを頂くためにです、これはどうでもこうでも一家中のものが、神様に喜んで頂けれる、私達にならなければいかんのだと、そうなろうじゃないかと。という話合いが家族の中で出来るようなですね。
 おかげを頂いて来る様になったら、もう近い将来その家には、ひれいが立つ事を私は確信いたします。ね。ごひれいというのは、お広前のことだけではない。家族の上にも村の上にも町の上にも、神様のごひれいを頂けれるためにです、先ず私共がです、神様の御ひれいを仰がしてもらう、神様の御ひれいを頂かせて頂くためにです、神様に喜んで頂けれるあり方になろうという、願いというものをいよいよ持たなければならんかという事がいよいよ分かるですね。
 皆さんは今日の御理解を、なんでもない風にして聞いとんなさる様にあるけれども、今日は大変な大発見なんですよ、このご理解は実は。はぁ御ひれいの立つ教会というのは確かに、神様に喜んで頂けれるものを、そこの信者一同が持っておるのだと、そこの中心になる先生がよっぽど神様に好かれる、神様の御機感に適うあり方の人に違いない。そこからごひれいが始まるのですから。ただなんか偶然にですねふがようしてです、例えばどんどん売れ出したとか、そのお広前が繁盛しだしたという事はないのです。
 だからこれは家族の上にでもそうなんです、どうもおかげを頂きよるばってん、本当に目覚しいおかげにならんというのです、あなたの家の中に、神様のごひれいを落とすことが出来ないからです。ね、移す邪魔をしておるからです。これで百姓例えばお道の信心をさせて頂いておる百姓と言えるか。これがお道の信心をさせて頂いている、商売人と言えれるか、これでお道の信心をさせて頂いておるものの、家族と言えれるかと。これではいわば、おかげを頂けてもごひれいにはならんと。ね。
 そこに神の勢いとか神の威というものが、輝き始めるというのは、そう言う所から立ち始めるのですごひれいが。ですからどうでも銘々の信心がそのまま、家族中の者の信心に浸透していかなければならん。一人でも反対したら、もう御ひれいを引き落とす事になる。ね、一人でも神様の心に適わん事をしよったら、それだけそのごひれいを落とす事になる。ね。これは私、椛目の方なんか神様のごひれいを頂かなければ、こげな事は出来やせんと思うです。10年15年でです。
 これだけの人が集まって来る様になったり、看板一つかけていないのに、やはり教会のようなあり方にならせて頂いたり、しかも例えばあぁいう見事な、御造営と言った様な事が出来るという事は、とても人間の知恵力で出来る事ではない。神様のごひれいによらなければ、出来る事ではないのですけれどもね、本当いうたらもっとごひれいが、華々しく輝かなければならないのだけれども、信者の誰かが引き落としよる。家族の誰彼が引き落としよる。それが私じゃなかろうかと、一遍一つ思うてみなければいけんです。
   どうぞ。